あまりに哀しいかぐや姫 3月14日

 日記

 

 

  

 

又々ご無沙汰をしてしまいました。

 

なんやかんやで……お許しを。

 

 

 

さて。日付が変わってしまいましたが、先程、

高畑監督の『かぐや姫の物語』をテレビで見ました。

 

オスカーの候補にもなっていた訳で、それで、まぁ何となく……

 

 

かぐや姫の話は日本人なら誰でも知ってますよね。

 

 

 

30年くらい前『竹取物語』は市川監督で映画になりましたよね。

錚々たるスター映画で、でもあれ月の使者ってUFОでやってきて、

最後にいつの時代や分からんSF映画になってしまってて、

月からそんな高度文明の大UFОが飛んでくるんやったら、

ついでに地球侵略していくやろ、と、

突っ込んだ記憶だけが残っています。

 

これですね。

 

 

 

 

 

 

 

すごいことになってるでしょ。沢口靖子さんがUFОに吸い込まれていくんやで。

 

 

 

 

 

 

で、今日(もう夕べか)見た『かぐや姫の物語』です。

 

 

 

 

 

 

 

 

すごい、深い、素晴らしい、そしてあまりにつらい映画でしたね。

 

つらいというのはダメというのではありません。あまりに無情なという意味です。

 

 

 

ストーリーはほぼ原作に忠実です。

 

 

ということは、結末は誰でもよく知っている「かぐや姫が月へ帰る」なんですが、

今日のを見て、今までこれほど絶望する話だとは思いませんでした。

 

 

ま、それだけボクが気楽に生きてこれて幸せだったという事ですが。

 

 

 

竹から生まれた女の子が、翁と媼の子になって、すくすく育って、

かぐや姫と名付けられて……でも、月へ帰る。

 

 

見ていて思ったのは、この原作って、仏教の教え、お釈迦様の教えを

広める為に書かれた物語なのだろうか?、という事です。

 

 

つまり、「人生は〈苦〉を背負って生きていく道」という教えですね。

人間は生まれ、育ち、老い、死ぬ。

その間勿論楽しみ、喜びもありますが、苦しみ、悩み、悲しみのオンパレード、

そして、死。

生・老・病・死、四苦八苦……

 

 

 

だって、最後の月に帰るシーン、あれって〈死〉でしょう。

 

 

この年になって初めて気がついたわ。かぐや姫の結末って無情な死なんだと。

 

 

 

 

以下少々ネタバレありです。

 

 

 

姫がおじいさんとおばあさんに言います。

「8月の満月の夜に月から迎えに来る。それはどんな力をもってしても

坑がえない。月の着物をまとった瞬間からこの世界の記憶はすべて消える」と。

 

驚いたおじいさんは、帝の協力を得て、武力で屋敷を固め、姫を守ろうとします。

 

そこへ……雲に乗った月からの迎えが来ます。

 

 

その映像が出た瞬間、ボクはゾッとしました。

 

 

迎えは、阿弥陀如来様(確かそうですよね)を頭に、菩薩様、天人、楽人、迦陵頻伽が

明るい天楽を奏で、天の花弁を振りまき、悠々とやってきたのです。

まるで楽隊を引き連れ、ちょっと遠出をする貴族達の楽しい午後の趣向のように。

ですがそれは、動かしがたい定理。絶対に逆らえない、絶対的な決まり事として、

やってきたのです。

 

死者を迎えにくる来迎図。

 

人間には勝てるはずのない節理の一団が、音楽を奏でながら、段々近づいてくる。

 

迫りくるその瞬間。

 

ボク、ジェイソンより怖かった。

 

姫もおじいさんもおばあさんも、抱き合って泣き、拒み、それが叶わぬなら、

運命を共にしてくれと懇願します。

 

しかし月の使者は「月に帰ればもう苦しみはない。この世界での穢れも消える」と

言って、姫に着物を着せます。本人の許可もとらず。

 

 

ようやく気がつきました。

 

 

月というのは、極楽浄土という意味だったことに。

 

 

姫は、着物を着せられたその瞬間、死んだのですね。

 

 

おじいさんの事もおばあさんの事も忘れ、雲の上の御座に座り、

優雅な音楽と共に月へ帰っていきました。

 

後に残されたおじいさんとおばあさんに訪れたものは、悲しみ、絶望、

決して消えない打ちひしがれた余生だけでした。

 

 

ここまで見てくると、前半の山暮らしの、明るく、瑞々しく、この世の全てが

笑顔で光り輝いていた少女時代のシーンが、なんて切ないのか……

 

 

でも待てよ。

竹取物語の作者(作者は不明です)が、仏教の教えを説くの為に

物語を表したのであれば、この結末はないよな。

 

仏教を信じれば、極楽へ行ける。だから死ぬことは怖くないし、終わりではないと

しなければならないのに、あまりにも無情すぎる。

 

 

そうか。

 『竹取物語』の作者は、仏教の教えに則って物語を表しながら、

「でも、それちょっとちゃうやろ」と言いたかったんだろうな。

 

後に残ったものの悲しみを、本当に救えるのか?、と。

 

 

『竹取物語』とは、そういうお話なのかな?と、この歳で初めて思った池田でした。

 

というより高畑監督だけの冷酷な解釈なのでしょうか。

 

あれが、月から光が伸びて、雅楽の響の中、始皇帝のようなお姿の天帝が

女官、文官、武官を引き連れて現れ、姫の手を取って月に帰って行ったのなら、

ただ姫を迎えに来ただけ。

月と地球に分かれても、姫は月の世界で幸せに暮らしていると思えるのに。

 

 

あまりにもショックでした。

 

 

 

 

後一つ。

 

 

これは物語の後半に分かってくる話ですが、こういうシーンがありましたよね。

姫は月にいる頃、ある女の人に出会います。その人は昔罪を犯して地球に落とされ、

その償いが終わったので月に戻った、地球での記憶はすべて消されて。

でもその女の人は、ある童歌だけはなぜか覚えていて、それを口ずさむと、

記憶がないのに涙が出る。

その人に出会い、姫は地球にあこがれ、その罪によって地球に落とされた。

地球に落とされた時点で赤ちゃんにされ、記憶を消されている。

なのに姫も、その女の人が歌っていた童歌を覚えていた。という事は、

「私も、記憶を消されて月へ帰っても童歌だけは覚えているのでしょうね」

 

という事は、月に返された姫が、記憶もないのに童歌を口ずさみ涙するその姿を

また別の女の子が見て地球にあこがれ、地球に落とされる。そして……

 

この繰り返しが起こるという事ですよね。

 

これって輪廻転生の事ですよね。

 

 

やっぱり深いなぁ、この話。

そして、あんまりやなぁ、この話。 

 

 

 

アニメを見てこんなことを考えてしまいました。

 

そんなん俺らずっと前から知ってたで。

 

ボクは、初めて考えたんですがな。

 

それほどの映画だったという事ですな。

 

 

やっぱり深い……

 

 

 

 

 

« »